『日本歴史地名大系』を読む

 

 家系図作成もだんだんと次のステップに進みます。除籍で本籍地が判明したら、旧土地台帳を取得し、地名辞典で土地の歴史沿革を調べます。地名辞典は都道府県別に刊行されている『日本歴史地名大系』(平凡社)と『角川日本地名大辞典』を使います。この二つの辞典は当然ながら重複している記載がある一方、それぞれ一方にしか記述や特徴があります。そのため、必ず両方を読むことをお勧めします。どちらも市町村立以上の大きな図書館であれば、参考図書として開架されているはずです。開架場所が分からないときは、カウンターに訊ねれば、教えてくれます。

 『日本歴史地名大系』は1974年から刊行が開始され、2005年に全50巻が世に出て完結しました。内容は地域別に記載されていますが、巻末に五十音索引があるため、本籍地の村名で検索すれば、該当するページがすぐに見つかります。

 今回は二ッ屋村、現在の石川県かほく市二ツ屋の項を読みながら、注意する箇所に①②③…と番号をふって解説しましょう。①②は当然ながらこちらでふったもので原文にはありません。引用のため、全文ではなく、一部のみです。全文は図書館でご確認ください。


二ッ屋村 ふたつやむら

[現]高松町二ッ屋

 大海川河口左岸に位置し、(略)①寛文10年(1670)の村御印の草高492石、免五ツ一歩、(略)②寛文11年の百姓数19(うち他村より懸作1)であった(③今浜村次郎右衛門組高免付帳」高松町史史料編)。享保9年(1724)の押水組巨細帳(④岡部文書)では百姓軒数26(ほかに懸作3人)・⑤頭振軒数15、文化3年(1806)の村高393石7斗、百姓家数44(男122・女129)、百姓下人男15・女6、頭振家数9(男18・女21)、耕作牝馬13。⑥漁業が行われ、(略)「鵜川村喜三兵衛元組巨細帳」⑦岡部文書・喜多文書)。(略)⑧稼として引網猟・塩焼・苧・蚕・瓦焼・桑・楮があげられている。

 ⑨瓦焼の開始年代は不明であるが、嘉永6年(1853)に塩士たちから燃料不足を理由に瓦焼が一時差止められた時には、(略)⓾明治元年(1868)に羽咋郡六ヵ村の瓦焼たちが藩の銃卒稽古所の屋根瓦の献上を願出た時には、当村からも作右衛門・七郎左衛門の二人が加わっていた(同文書・高松町史)。一方、⑪製塩は嘉永4年から始められ(同年「口郡内外浦塩士村々出来御塩并拝借御米留」岡部文書)、翌5年には塩士8で、塩浜9枚・浅釜7枚、字貝がら塚に御塩小蔵があった。(略)

 「高松町史」によれば、⑫細滝社はもと瀬戸比古神社の氏子で、宝暦年間(1751-64)に大物主命を勧請して産土神と定めたとあるが、(略)⑬真宗大谷派浄善寺は天正18年(1590)祐善の創建とされ、(略)天和3年(1683)に「二ツ屋村祐善、浄善寺与成」とある。


  1. 「寛文10年(1670)の村御印の草高492石、免五ツ一歩 」とあります。これは寛文10年時点の村の米の総生産高が492石で、それに対する年貢(税率)が五ツ一歩、51%だったということです。学校の歴史の授業では四公六民などと習いますが、年貢が四公(40%)だったのは幕府の直轄地(天領)であって、大名領や旗本領ではそれ以上の課税率が一般的でした。東北では80%を超えた例もあります。この免(年貢率)が分かると、ご先祖の暮らしぶりが想像できます。
  2. 「寛文11年の百姓数19(うち他村より懸作 1)」とあります。これは寛文11年(1671)時点の村人の戸数が19軒だったということです。懸作(かけづくり)とは、ほかの村の住人でありながら二ッ村に田畑を所有している者のことです。このような歴史用語については、『国史大辞典』やインターネットで検索し、意味を理解する必要があります。
  3. 2の出典が「今浜村次郎右衛門組高免付帳」という文書で、それが翻訳されて『高松町史 史料編 』に収録されていると書かれています。同書は国立国会図書館、石川県立図書館などに所蔵されています。同書には、このほかにも二ッ屋村の文書が収録されている可能性がありますので、上記の図書館を訪問して閲覧するか、最寄りの図書館に依頼して取り寄せてももらいましょう。そのほか上記の図書館に連絡して該当するページのコピーをお願いすることもできます。そういう依頼をレファレンス(照会)と言います。
  4. 「岡部文書」が原典として使用されています。これは岡部家が所蔵している文書という意味ですが、その所在については記載がありません。旧高松町の家であれば、『高松町史 史料編』に収録されているかも知れませんが、詳しいことについては地元の教育委員会(今回の場合はかほく市教育委員会)に訊ねてみるといいでしょう。なぜ教育委員会なのかというと、通常、市町村史などの郷土誌を編さんするさいには、教育委員会に編さん室が設置され、地域の旧家が所蔵している古文書が調べられ、目録が作製されるからです。もしも市町村史編さんに関わった職員がいれば、この文書の所在を知っているかもしれません。または職員が知らなくても、教育委員会は地元の歴史に詳しい郷土史家とつながりを持っている可能性が高いので、調べる方法を教えてくれることがあるからです。
  5. 「頭振軒数15」とあります。この頭振 というのは加賀藩(金沢藩)の歴史用語で、無高の農民のことです。俗にいう水呑み百姓、小作人のことですが、こういう歴史用語が出てきたときには2でも説明した通り、マメに意味を調べましょう。『日本歴史地名大系』は村の歴史沿革をコンパクトに解説している便利な辞典ですが、家系調査を行う人は、せっかくのこの辞典を使い切っていません。その理由は、このような歴史用語が出てきたとき、読み飛ばしてしまうからです。文章というものは読み飛ばしが多くなればなるほど、意味が分からなくなってしまうものです。
  6. 二ッ屋村では農業のほかに漁業も行われていました。このような村人の生業を解説した記述は、ご先祖がどのような暮らしを営んでいたかを想像するうえで、大変に有益な情報になります。この村の人は農業のかたわら海で漁もしていたのです。
  7. 岡部文書・喜多文書が利用されています。この文書の所在については、4で説明したようにかほく市の教育委員会に問い合わせてみると良いでしょう。
  8. この村の人々が米作りのほかに行っていた生産について書かれています。人々は引網猟(網を使った狩猟)を行い、塩焼(製塩)・苧(麻の織物)・蚕(養蚕)・瓦焼・桑(桑の葉はカイコの餌)・楮(和紙の原料)を生産して生活の足しにしていました。
  9. 当村では塩焼きを行う塩士が瓦も焼いていました。
  10. 明治元年(1868)に羽咋郡六ヵ村の瓦焼たちが藩の銃卒稽古所の屋根瓦の献上を願出た時、当村からも作右衛門と七郎左衛門が参加しました。明治元年といえば、現在入手できる明治19年式戸籍に名前が記されている時代です。ご先祖がこの村の出身で、除籍に作右衛門か七郎左衛門という名前があれば、ご先祖は瓦を焼いていた職人だったことがこの記述から分かります。
  11. この村における製塩業の歴史が書かれています。この村は他の村と比較すると、多様な副業があった村であることがよく分かります。 
  12. 村には細滝社がありました。神社には鳥居や狛犬、石灯篭などがありますが、それらは氏子が寄進したもので、側面に寄進者の氏名が彫られていることがあります。現地調査でこの村を訪れたさいには、細滝社を訪問して鳥居などを調べてみましょう。社務所があれば、かつてご先祖が氏子であったかどうかを氏子台帳などで調べることができないかどうかも訊ねてみるのと良いでしょう。
  13. この村には真宗大谷派の浄善寺というお寺がありました。二ッ屋村の村人であれば、このお寺を菩提寺として使っていた可能性が高いでしょう。過去帳にご先祖の名前や法名がないかどうかを問い合わせる必要があります。

 

 このように『日本歴史地名大系』を読むときには、使用されている文書の所蔵先に注意しながら、分からない歴史用語を調べ、戸数や年貢率、産物、神社、お寺に気を付けながら読んでみると、内容がよく理解できるだけではなく、江戸時代の村人がどのように生活していたかも想像することができるはずです。