武士のQ&A


Q  先祖は武士だと聞いています。確認する方法はありますか?

A  江戸時代から明治初期にかけて作製された藩士名簿があります。呼び名は名簿が作られた目的によって変化しますが、分限帳(ぶげんちょう)と呼ばれているものが多く残っています。明治19年式の除籍に記載されているご先祖の名前を見つけるためには、江戸末期から明治初期のものを見るとよいでしょう。ただし、分限帳には藩士全員が記載されているわけではありません。多くの場合、下級武士や役職に就いていない藩士は省略されています。


Q  分限帳はどこにありますか?

A  藩が置かれていた町の市町村史や都道府県史の資料編に収められていることがよくあります。その場合は活字化されています。もしも活字化されているものが江戸末期から明治初期のものではない場合は、郷土博物館や公文書館などに問い合わせると良いでしょう。


Q  分限帳を見ましたが、除籍にいる先祖の名前は見当たりませんでした。ほかに調べる方法はありませんか?

A  実は江戸時代の武士は名前を二つ持っていました。通称と実名(諱)です。通称は日常生活で使用し、実名は墓石や系図にのみ記されるのが一般的です。西郷隆盛の場合は吉之助が通称で、隆盛(本当は隆永)が実名です。明治5(1872)年に壬申戸籍が作製されたとき、武士はどちらか一つの名前を戸籍に登録し、もう一つは廃名としました。このとき西郷は吉之助を廃名にして隆盛を登録しました。大久保は一蔵を廃名にして利通で登録し、板垣退助は通称の退助を登録して正形を廃名にしました。江戸末期から明治初期の分限帳は通称しか記載されていないため、西郷や大久保のように江戸時代に使っていた通称を廃名にすると、分限帳の名前と一致しません。分限帳にご先祖の名前が見当たらない原因の多くはこの廃名のためです。実名を登録した場合、明治5年の廃名後に作製された士族名簿などには実名が記されているので、それらの記録を見ることになります。


Q  先祖は武士でした。江戸時代の記録に見える年齢が随分と年上に書かれています?

A それは官年というものです。江戸時代の武家社会では数え17歳に満たない当主は養子を迎えることができなかったため、17歳未満で急死すると御家が断絶しました。後には死後、養子を迎える末期養子が大目にみられるようにはなりましたが、それでも幼少当主は嫌われ、しばしば年齢を水増しして幕府や藩に届けられました。これを官年といい、後に作られた除籍の生年月日と比べると数歳、多い時には15歳も水増ししているケースさえありました。そもそも江戸時代の武家には出生届を出す習慣が無く、子供がある程度成長してから「ここまで丈夫に育ちました」という丈夫届を出す仕来りでしたから、そうじて武士の年齢は実年齢よりも年上で記録されていることが多いのです。



Coffee Break Vol.1 宮本武蔵の系譜 



 これは剣豪宮本武蔵の養子伊織家の系譜です。伊織は豊前国小倉藩(福岡県北九州市小倉北区)小笠原氏に仕官して家老を勤めました。この系譜は宮本武蔵のルーツを研究する上では貴重な史料とされています。以下、赤丸の部分を解説します。

  1. 宮本武蔵玄信とあります。武蔵のことです。
  2. 赤松後流とあることから、武蔵のルーツが第62代村上天皇(926-67)の流れをくむ村上源氏であることが分かります。武蔵は藤原姓を称したともいわれていますが、その子孫は村上源氏を称しています。
  3. 武蔵の兄は田原甚兵衛久光といい、宮本姓ではありませんでした。
  4. 伊織は武蔵の兄田原甚兵衛の二男でした。
  5. 甚兵衛の長男(伊織の兄)は茂右衛門吉久といいました。
  6. 宮本伊織家の家紋は九曜巴とあります。これは武蔵から伝えられた家紋と推測されます。